吹屋銅山と広兼邸

標高500メートルの吉備高原に広がる高梁市成羽町吹屋地区の一角に銅山が有ります。鉱石の搬出路だった笹畝坑道(延長320メートル)の入り口です。
 
「この町が栄えたのは銅と顔料のベンガラが有ったから」
銅山が発見されたのは平安時代807年の事。江戸時代に幕府の直轄地となり大阪の豪商、泉屋(後の住友財閥)が1684年採掘を始め生産量が飛躍的にアップ。
1873年に三菱財閥創始者岩崎弥太郎が経営に乗り出し巨費を投じてダイナマイト等よる採掘をとり入れ、日本三大銅山と言われた。
銅山で産出する硫化鉄鋼を原料にベンガラの生産も始める。

広兼氏は庄屋で、享和、文化の頃銅山とベンガラ製造を営み巨大な富を築き、徳川末期に建てられた楼門づくりの邸宅や城郭を思わせる石垣は当時の富豪を偲ばせます。
  広兼邸より写す。

  広兼邸

       
       
     店の間と土蔵
 
     
         
上の左は水琴窟。右は横溝正史シリーズの映画、八つ墓村のポスター で此処を舞台に撮影されたようです。
数々の部屋は居間、客間、主人の居室、寝室、女中部屋、隠居部屋、数え切れません。馬小屋の隣は下女、番頭、下男の部屋など有りました。